2月4日(土)の夕方、親父は病室で気持ち良さそうにぐっすり眠っていた。
「お父さん、みのるがきてくれたよ。もうそろそろ起きんと夜また寝られへんよ。」
私が来た事で気を利かしたのか、眠っている親父を母が起こした。
親父は心臓の機能が低下しているせいで、
入院してからは常に酸素マスクが必要で、酸素マスク越しに入院してからの体調や病院での出来事を一
生懸命私に話してくれた。
親父の言葉は酸素マスクの影響で正直聞きづらかったが、母の”通訳”もありなんとか理解できた。
約15分ほどのほぼ90%親父が話すといった会話を終え、
「今回はすぐに退院できるよ!退院したら温泉行こうね!」
帰り際の親父を励ます私の言葉に、泣いているのか笑っているのかわからない顔で、
「頑張るはなあ」が最後に聞いた親父の言葉だった。
この日の会話がまさか最後になるとはその時は思いもよらず、今思えば、もう少し長く話しておけば良か
ったと本当に後悔している。
その日の晩は21:00には就寝した。
2月5日(日)明け方の午前5時、突然の電話で目が覚めた。
電話の相手は母からで、親父が危篤を知らせるものだった。
実は前日の明け方に同じ光景の夢を見た。
そのせいか、電話が鳴った段階で母からだとわかったし、どういう内容かもわかった。
病院に着いた時はもう既に親父は意識が無く、医師と看護婦の心臓マッサージを受けていて、
その甲斐あって親父の心臓はなんとか再び動き出したが、心臓が一度止まった影響で脳が全く機能せ
ず、ただ心臓だけが弱弱しく動いている状態のいわば”植物人間”の状態で、医師からは
「心臓も動きはしたが今晩がヤマです」
と伝えられた。
昨日親父は弱ってはいたがそれなりに元気だった。
何がこの数時間であったのか・・・?
死因はわかったがなぜそうなったのか今だはっきりわからない。
なぜ急に心臓が止まったのか?
心臓マッサージによって、弱弱しく動き出した心臓もその日のお昼には通常の成人男子の血圧まで
元気になっていた。
一時は”植物人間”としても延命できるんでは?
朝、母からの電話で病院にかけつけてから20時間、医師から伝えられた「今夜がヤマ」は何とか越せそう
な雰囲気がしてきた。
「心臓の動きはナースステーションで確認してます」
医師のこの言葉と疲れていた事もあり深夜1時親父を母と姉にまかせて一旦自宅に戻り横になることに
した。
朝6時主治医がようやく休暇か戻り親父の病状等説明をしてくれるとの事で、5時00に起き
病院に行く準備をしてる時に、また電話が鳴った。
母からで、兎に角早く来るようにとだけ伝えられた。
病状が悪化したのか?
いろいろと考えながら急いで病院に向かった。
病院に着くと母や姉妹が泣き叫んでいる。
病状が悪化したところではなかった。
2月6日(月)の5時56分、親父は息を引き取っていた。
母や姉妹もそばにいても誰も親父が息を引き取った事がわからなかった。
定期的に巡回している看護婦が脈をはかりにきてはじめて脈が止まっているのがわかった。
「心臓の動きはナースステーションで確認してますから」
親父の心臓の動きを見てくれてたんじゃあないの?
血圧測定器は親父が息を引き取った後も成人男子の値のままだった。
どうなっているのこの血圧測定器?
看護婦は血圧測定器はあてにならないといいう。
病院ってこんなもんなのか?
文句を言ってもはじまらないのはわかっているが、あまりにもひどすぎる。
違う病院だったら?
もっと何か違う方法は無かったのか?
日本で一番優秀な病院や医師だったらもっと違う答えが出ていたんでは?
いろいろとと考えてしまった。
親父がずっと信じていた主治医がやっと病室に訪れた。
主治医は何度も頭を下げた。
言いたいことは一杯あったが、病院に対して今更どのうのこうのと言っても仕方がない。
それより、もっと早い段階で何もできなかった事を本当に悔やんだ。
親父は念願の家に帰る事ができた。
家に戻ってきた親父はすごい幸せそうな顔をしていた。
2月6日(月) 19:00~通夜
7日 (火) 2:00~告別式
を、私が喪主として行った。
通夜や告別式には親戚や私の友達、親父の知人など多くの方が弔問に来てくれた。
また、インターアクトの鈴木社長、もしもんの栗原社長、日本ソフトウェアの桶川社長、マンダラの大田社
長の秘書の方がわざわざ東京からお越しいただき本当に嬉しかった。
またサムライの皆をはじめ沢山の弔電や献花をいただき、親父も本当に喜んでいた思う。
2月3日(金)に大阪に戻った時はまさかこんな事になるとは思わなかった。
もっと親孝行ができると思っていたがもうできない。
もっともっと親孝行をしたかったしもっと生きててほしかった。